秋月 久助葛 葛蔵開きが開催されます!

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本日、初日17日は、午前九時より神事、葛蔵見学、午後14時から角谷文治郎商店 代表取締役社長 角谷利夫さんによる「三河みりんと本葛」の講演と築80年の高木邸はなれにおいて、本みりん、みかんジュレー葛湯、秋月の郷土料理だぶの試食がおこなわれました。

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18日は、葛蔵見学、午後14時から「葛の食文化」ゲスト和仁皓明先生(東亜大学名誉教授「西日本食文化研究会」主宰)概要、さ乃の葛料理、葡萄月セレクトワインをたのしんでいた後は、葛の製造工程を見学、対談では、縄文時代から食べられていた葛、江戸期洒落た食品として開発された本葛の歴史をひもときます。金額7000円定員20名(お陰様で満員御礼になりました。ありがとうございました。)、交通、福岡市から秋月への往復バスを運行致します。日本銀行前午前10時00分発 往復料金3000円(お陰様で満員御礼になりました。ありがとうございました。)

19日は、葛蔵見学

20日は、14時より「秋月の歴史」ゲスト矢野殻さん、コーディネーター安部文範さん、概要、葛桜と葛葉茶付きをいただきながら、近代俳句の巨人高浜虚子の秋月訪問など歴史のなかの秋月を対談いたします。会費1000円、定員20名

秋月人物伝

3月13日 秋月種実の忠義の志士 恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶあき)の供養がおこなわれました!

以下、戦国時代 秋月氏の歴史参照

信長亡き後天下統一を狙う秀吉にとって、西国の大名達は目の上の瘤であった。

特に島津とそれを助ける九州の雄藩をつぶさなければ、到底天下統一はおぼつかないため、
1586年12月1日、豊臣秀吉は九州征伐を正式に発令する。
翌年1月、第一・二次九州征伐軍出陣。

25万の大軍が九州へ向かった。

秋月種実の忠臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶあき)は、
迫り来る秀吉軍の敵情視察のため、種実の命を受けて広島へ赴き、秀吉と会見する。

種実の命は敵情視察であったが、仮陣で待機する秀吉軍を見て、
すでに恵利内蔵助はその役目は終わったと感じていた。

恐るべき大軍、最新鋭の火縄銃、士気上がる兵達。

恵利は秀吉の前で、九州征伐の先陣を勤めるよう主君を説き伏せ、

太閤殿下のおいでをお待ち申し上げております、と言上した。

秀吉はこれを聞いて

「殊勝じゃ、恵利内蔵助」と、自ら一振りの太刀を恵利に授け、

さらに、もし島津とともに秀吉配下となれば、筑前・筑後の国に肥前も加えて約100万石をすべて秋月氏に与えるとまで言った。

秋月へ戻った恵利は、主君と並み居る重臣達を相手に秀吉軍の規模を説明し、

これと戦っても勝ち目はなく、お家存続のためには島津との盟約を断ち切って秀吉方に付くよう説いた。

しかし種実はじめ重臣達は、

「臆したか、内蔵助」「たった一降りの刀で秀吉に懐柔されおって」と恵利を嘲り、

あくまでも秀吉軍に対抗する姿勢を崩そうとしなかった。

実際に自分の目で秀吉軍を見た恵利は、秋月に万に一つも勝ち目はないことを知っていた。

数度にわたる注進・講和の願いが聞き入れられず、

臆病者とののしられた恵利は、妻子と共に自決するのである。

秋月の北西のはずれにある鳴渡大岩と呼ばれる岩の上で妻子を刺し、自らも割腹して果てた。

以前から恵利家に仕え、武勇を持って知られていた臣下の崎津与九郎(さきつよくろう)も後を追った。

今この大岩は、「切腹岩」とか「はらきり岩」と呼ばれて、秋月の鳴戸にある。

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RKB 今日感テレビの取材がありました!!

昨日、朝から取材があり夕方まで撮影がありました!!

ふるさと料理人 藤 清光先生による本葛を使った料理から

スイーツまで盛りだくさんの内容ですので是非ごらんください!

本葛のいろんな可能性が紹介されています!!

放送は、平成24年3月15日(木曜日) 放送予定です!

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第146回 直木賞受賞「蜩の記」の葉室麟先生がテレビの取材で、おこしになりました!

「秋月記」の物語の足跡をたどって、秋月を散策取材されました!

「秋月記」の中で、フィクションですが、久助が物語に出てきます!

一緒に記念撮影をさせて頂きました!

ありがとうございました!

平成24年2月27日(月曜日) 午後6時30分 ニュース ピアで放送予定です!

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