秋月人物伝

3月13日 秋月種実の忠義の志士 恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶあき)の供養がおこなわれました!

以下、戦国時代 秋月氏の歴史参照

信長亡き後天下統一を狙う秀吉にとって、西国の大名達は目の上の瘤であった。

特に島津とそれを助ける九州の雄藩をつぶさなければ、到底天下統一はおぼつかないため、
1586年12月1日、豊臣秀吉は九州征伐を正式に発令する。
翌年1月、第一・二次九州征伐軍出陣。

25万の大軍が九州へ向かった。

秋月種実の忠臣恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶあき)は、
迫り来る秀吉軍の敵情視察のため、種実の命を受けて広島へ赴き、秀吉と会見する。

種実の命は敵情視察であったが、仮陣で待機する秀吉軍を見て、
すでに恵利内蔵助はその役目は終わったと感じていた。

恐るべき大軍、最新鋭の火縄銃、士気上がる兵達。

恵利は秀吉の前で、九州征伐の先陣を勤めるよう主君を説き伏せ、

太閤殿下のおいでをお待ち申し上げております、と言上した。

秀吉はこれを聞いて

「殊勝じゃ、恵利内蔵助」と、自ら一振りの太刀を恵利に授け、

さらに、もし島津とともに秀吉配下となれば、筑前・筑後の国に肥前も加えて約100万石をすべて秋月氏に与えるとまで言った。

秋月へ戻った恵利は、主君と並み居る重臣達を相手に秀吉軍の規模を説明し、

これと戦っても勝ち目はなく、お家存続のためには島津との盟約を断ち切って秀吉方に付くよう説いた。

しかし種実はじめ重臣達は、

「臆したか、内蔵助」「たった一降りの刀で秀吉に懐柔されおって」と恵利を嘲り、

あくまでも秀吉軍に対抗する姿勢を崩そうとしなかった。

実際に自分の目で秀吉軍を見た恵利は、秋月に万に一つも勝ち目はないことを知っていた。

数度にわたる注進・講和の願いが聞き入れられず、

臆病者とののしられた恵利は、妻子と共に自決するのである。

秋月の北西のはずれにある鳴渡大岩と呼ばれる岩の上で妻子を刺し、自らも割腹して果てた。

以前から恵利家に仕え、武勇を持って知られていた臣下の崎津与九郎(さきつよくろう)も後を追った。

今この大岩は、「切腹岩」とか「はらきり岩」と呼ばれて、秋月の鳴戸にある。

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